埋蔵金の歴史ロマンに於いては長い歴史の中で諸説あり、未だに其れを追い求め実在したことなのか膨らむ想像は尽きません。
徳川埋蔵金の時代背景を当時の世界情勢、特に日独関係も交えて驚愕の最新情報を一緒に考察しましょう。
明治維新により19世紀のドイツを目指した文明が開化し始め、現在の日本社会の様々な礎となっているのはご存知の通り。
どうしてもドイツよりは、戦後70年以上アメリカに倣い発展を遂げてきた日本ではありますが。
長い鎖国の末に最も影響を受けあったとも言えるドイツとの関係を見てみると伊藤博文他当時の政権中枢の人物はドイツの初代宰相ビスマルクに傾倒して、とりわけ伊藤博文に於いては東洋のビスマルクとして世界的に注目されていました。
例えば国家社会の仕組みとして今は先進国なら当たり前の社会保障は19世紀のドイツ帝国初代宰相オットー・フォン・ビスマルクが出身政党の強硬保守派の基本である絶対君主制への拘りを緩めて、政敵の社会主義の概念を取り入れることにより労働者の不満を抑えて内政を安定させる目的で世界で初めて取り入れました。
敵の考えも取り入れることによる自己の限界と勢力均衡を重視することで国際社会の安定化を模索したバランス感覚はビスマルクが外交官時代に養われた考えに基づいたものか。
まさに年金や雇用保険や健康保険といた社会保障の社会とは社会主義の社会であり、今も多くの資本主義の先進国も日本同様に対照的な社会主義の概念がセーフティネットとして現在に成り立つ訳です。
其の明治維新の過渡期に徳川幕府と幕府側の藩と対峙する官軍の攻防の末に幕府側が負け、大政奉還そして廃藩置県となっていきますが、負けた幕府側は江戸城にあったはずの20兆円もの幕府御用金を埋蔵金として何処に隠したのか・・・
しかしその対峙する様子を駐日大使から逐一、情報を得ていたビスマルクはまさか幕府側が負けるとは流石に思っていなく、まさに日本の下からの革命に驚きつつ、自らは上からの革命によりドイツを統一したもよう。
興味深いのは、危機感を募らせる当時の江戸幕府側はビスマルク率いるドイツ帝国にも外交交渉で対官軍への軍事協力を要請しておりますが、他の欧州の烈強の植民地獲得の流れと距離を置く考えから中立性を重視するなどの理由でビスマルクは、このチャンスを却下しております。
しかしこの考えこそ後に伊藤博文らを、ビスマルクたらんと傾倒させることに。
この事はちょっと頭の片隅に置いておいて下さい。この埋蔵金の話しに重要なポイントとなります。
今のEU主導国であるドイツはこの最終的な動きが無ければ違うドイツとなっており、更に弱小新興国プロイセン寄りの国家だった訳です。
と同時にビスマルク主導の小ドイツ主義からドイツ帝国統一へ至った事によりオーストリアという国家が出来て、フランスの君主制が今の共和制に変わり、且つビスマルク没後のナチスの重大なる紆余曲折を経てドイツは今の欧州のEU牽引国に変貌を遂げていきます。
当時の日独関係は先を行くドイツと其れを追い求める日本でありながらも、またドイツも日本に影響を受けていたという歴史が其処にあります。
さて諸説ある、この政権末期の幕府側が隠したとされる徳川埋蔵金。
どうやら陸には無く海底に眠っている可能性がより高まっております。
江戸城の官軍による接収の前に現在の貨幣価値で20兆円もの幕府の御用金が消えたところから始まる、この徳川埋蔵金。
群馬県の赤城山麓という有力説ではなく1868年5月8日に横浜から蒸気船で運ぶ途中に三浦半島近くで座礁して沈没しており、偽装の仕方や真夜中の出航など疑わしい状況が。
しかも中国へ向かうという計画も偽装であり、仮に遭難せずに幕府御用金でフランスやアメリカなどから軍艦などを調達していたなら明治維新が先延ばし或いはギリギリのところで江戸幕府が攻勢を強めて再び元の鞘におさまり続ける事になったか。
ドイツに軍事協力を却下された幕府側の敗者の歴史は日本には殆ど残らずつい最近、なんとドイツの公文書館にて幕府側から宰相ビスマルク宛の、北海道を植民地としてドイツに渡すので、その見返りに幕府側に軍事協力願いたい旨の外交文書が見つかっております。
自ら国土の一部を植民地として欲しいと日本が提案していた事も驚きであるが、ドイツ駐日大使もこの交渉をチャンスと捉えビスマルクを押したにも関わらず却下・・・ドイツと気候風土の似ている広大な北海道に魅力を感じていた為に、却下はしたものの日本の内政混乱が収束する時期を待ち、実は北海道東沿岸部の紋別にドイツの軍港を焦らずに建設する計画もありました。
幕府側はドイツに軍事協力を断られ、最後の望みである幕府御用金を満載した蒸気船が沈没。これらのうち何かがもし成功していれば我々の日本史も現状も全く違っていたと言えそうであります。
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